2000年多摩川―舟遊びの記録 
  -船で遊べる川への挑戦-






このレポートは、20世紀末に多摩川に誕生したある川下りの会の交流記録と2000年夏、源流域から二子玉川まで下った冒険の 物語である。
これは、また、我々に心地よい疲労感と楽しい思い出を数多く与えてくれた多摩川への感謝の記録でもある。

2000年9月24日        
多摩川・リバーシップの会    
長野正孝

 


多摩川ダウンリバー


川崎親子カヌー
●はじめに
●楽観的かつ弾力的計画づくり
●第一日目(8/16) ― 御岳渓谷から羽村堰まで ―
●第二日目(8/17) ― 羽村堰から四谷本宿用水堰 ―
●最終日 (8/18) ― 二ケ領上河原用水から二子玉川へ ―
●参考追記  ― 二子玉川から調布堰 ―(2000年の記録)


 

●はじめに  

多摩川の舟運は、江戸の城都の建設とその後の度重なる火災復興のために、奥多摩の木材が筏によって流されたことが嚆矢とされている。やがて、荷駄を積んだ舟が、登戸まで上り、甲州街道と馬の背で結ばれるに至った。明治になり、首都東京の建設のための砂利採取がこの川でブームとなり、流域に大いなる繁栄をもたらした。
これら木材や砂利の輸送は、近年まで続き、二子玉川など拠点の町に周辺農村とは一味違った華やかな歴史と文化を醸成させてきたといえる。その拠点二子玉川には、川湊があり、屋形船による趣のある舟遊びの風景があった。

            
        往時の多摩川の筏下り                 多くの船で賑わう世田谷の川湊

平成9年の河川法改正によって、忘れ去られていた舟を通す営みが全国的に認められ、復活できるようになった。
平成10年、現代版多摩川の舟遊びを復活させることによって、昔の舟運を顕彰し、交流を促進し、21世紀の舟遊び文化を創造し、いい川づくりを実践するために、我らがボランティア・グループ「多摩川・リバーシップの会」が関係方面のご理解を得て発足された。

そして、今回、我が会として、多摩川の流域全体、対岸交流のために、ゴムボート、カヌーなどによる舟遊びが可能かどうか、遊び心で20世紀最後の夏に上流から河口付近まで下って見ようということになり、有志を募り、実行に移した。
この報告書は上流から河口付近まで、実際に下って、多摩川という川を我々なりに理解したこと、気付いたこと、今後の課題とあわせて、二子玉川での我々の活動を20世紀最後の記録として、後世に残すためにまとめさせて戴いた。   
           
     往時の二子玉川の屋形船による舟遊び         1988年4月最初の川下りの記念写真

 

●楽観的かつ弾力的な計画づくり

川下り調査は、平成12年8月16日(水)から18日(金)の3日間掛けて、奥多摩から河口の羽田まで下ることを考えた。初日は奥多摩御岳渓谷第三発電所前(杣の小橋上流:河口から73km)より、福生多摩川中央公園付近(河口から54Km)まで約29kmを、二日目は二子玉川付近までの25kmを、三日目は大師橋もしく羽田まで19kmを、合計73kmを下るという計画であった。
川の中の情報が殆ど得られかったが、途中には堰が多い、土丹があり浅く、かなり川床を歩くことになる、大田区田園調布付近まで勾配がそれ程変わらない急流河川とごく普通の情報をつなぎあわせて理解し、堰で水があれば、流れに乗れば楽に下れると楽観的に考えていた。しかし、一方では、状況の変化にすみやかに対応できるような段取りも行った。

すなわち、途中の天候、流況の変化を考慮し、お盆の時期であり、サポートの応援スタッフが十分でないことも勘案し、堤防上の道路交通事情も判らないことなどから、途中キャンプしながら、弾力的に対応し、とにかく出来るところまで下り、スキップすることもあり得べしという合意を得て実施した。

上流部の御岳渓谷から福生まではラフト・ボートで、そこから下流はカナディアン・カヌーで下ることとした。そして、結果として全行程の6割の44kmを下ることができた、もしくは、それしかできなかったというべきか、計画と現実の乖離について様々な角度から分析、将来の多摩川の舟下りの可能性について評価したいと思う。

参加者は堀展史(統括リーダー)、勝田勝(川下りリーダー)、堀内道夫、森田皓一、中川三郎、長野正孝、加藤真紀子、杉浦剛の8名と勝田の愛犬マッキーで、加藤、杉浦には車、食事のサポートをお願いした。
クルー6名の年齢は、最年少48歳、最高齢69歳、平均は還暦を越えた61歳であったが、心は血気盛んな若者達であった。
7、8名が3日間一緒にキャンプできる資材、食料、ボート3隻を2台の車に積んで、15日夜に世田谷を出発、夜11時に御岳渓谷でキャンプを張った。杉浦を除く全員そろっての打ち合わせは、出発前日深夜のキャンプ場となった。

          
         前夜のキャンプでの打ち合わせ             出発当日のキャンプの様子


●第一日目(8/16) ― 御岳渓谷から羽村堰まで ―


御嶽渓谷を一気に下る


○スリリングな奥多摩下り

台風9号が太平洋岸をかすめて通った余波が残り、14日まで関東地方にかなりの雨が降り、水量がある中、午前9時半、御岳渓谷多摩川第三発電所の排水口前をスタートした。ここより上流は、ダムや鱒釣り場が渓流を分断しており、この地点が連続して河口まで川下りができる最上流部であった。
この付近は御岳渓谷付近で深い谷をつくり、左岸に青梅街道,右岸に吉野街道がはるか上を走っている。6人乗りのラフト・ボート(沢井までは5人)で下ったが、水量は多く、ボートは曲がりくねった狭い岩だらけの渓谷を流れに乗って駆け抜ける。直線部では、水流は水煙を立て、落ちるように流れ、曲線部では白波を立て岩を噛む流れとなる、そこでは、ボートはラダーで回転を加え流れ下る。大小の岩の間を蛇行して流れるカヌーのスラロームのメッカである沢井付近も、水量があり白波で岩も見えず。この白波をホワイト・ウオーターと呼ぶ。


ホワイト・ウォーターの連続


張りつくぞ!!

〇アクシデント

最長老でラダーマンの勝田は自由自在に舵を切り、ボートを回転させながら、実にうまく岩を避ける。眼前の岩肌、白波の景色が走馬灯のようにくるくるまわる、これは結構スリルがある。しかし、流れ速く、岩をかすること限りなし。これも岩をクッションにして曲がるラフティングの技術で、このスポーツの醍醐味でもある。
しかし、沢井の少し下流で数十センチの予測がはずれ、避けきれず、大岩に「どーん」と正面から激突、ボートは岩に乗り上げ、張り付き、前と後にいた中川、森田両名もんどりうって濁流に投げ出されるが、ボートのロープに必死につかまる。ラダーマンの勝田に助け上げられるまで、両名、激流に抗し、死の恐怖を味わう。森田は数十秒間、流れる水から顔が出せず、中川の釣遊び用のライフジャケットの4つのポケットはズタズタ、靴は流され裸足になる。 
その間、堀、堀内、長野は、勝田の指示で、張り付いたボートを浮かすために大岩にパドルを持って這い上る。しかし、軽くなったボートは、水中から助け上げた中川、森田と勝田だけを載せたまま、突然、バランスを崩し、白波の中を下流にあっという間に流され、生き別れに。
この失態の原因は、クルー一同動転し、岩に上がった3名とボートに残った勝田との間にロープを取り忘れたことで、しかも、パドルを全部岩の上に上げたために、ボートはパドルなしで流されてしまった。
だが、ボートの勝田は沈着、冷静、すぐに右側に身を乗り出し、ハンド・パドルという両手で水をかいで進む技で力強くぐいぐい進み、すぐに、50m先の右岸にボートを力強く寄せ、素早く森田、中川を下ろし、次に岩に残された3名を救出すべく、右岸岸壁に沿って、ボートを滑らせて上流に返す。横からからロープを投げるも届かず、パドルを勝田に投げ、上流から漕ぎ寄せ、残された3名を救った。その間、40分程度、次々と繰り出すプロの技に一同、只驚くのみ。


危険なテトラの瀬を勇敢に押下る勝田

























中継地で一休み、「やれやれ」

 

○危険な横断構造物―テトラの堰

やがて、再び5名全員を乗せたボートは、二俣尾付近から少しゆるやかになった流れにまかせて下るが、三箇所の落差工(流れを弱めるためにつくられた堰)が待ち構えていた。小さな二つの落差工は水量が十分あり、容易に乗り越えることが出来たが、石神前の俗称「テトラ(正確にはテトラポットではない)の堰」というブロックを積んだ大きな堰の通過はトラブルであった。   
この堰は奥多摩最大の落差工で、過去幾人もの人名を奪ってきたといわれている危険な構造物である。我々が下る前の週にカヌイストがここで1人死亡したとか。事前に「多摩川センター」の山道省三氏から戴いたガイドブックによると、「右岸側を通過できる」とあるが、水流が激しく、しかも、前面に岩があり危険で、乗ったまま越えるのは無理と判断し、降りて左岸を渉ることにした。
クルーは左岸の岩壁伝いに下り、下流で待つ。勝田ラダーマンだけがボートに乗り、左岸のテトラを右左にかわしながら強引に押し下る。よく見ると中央部のテトラは太い鉄の鎖で繋がれ、壊れたものは鉄筋が剥き出しになっており、ぶつかれば、ゴムボートやカヌーはひとたまりもない。

これらの堰は洗掘防止、農業用水の取水が目的あるとのことであるが、人間の安全はまったく考えてはいないようである。
この堰の構造上の欠陥は、テトラの間にカヌーやゴムボートが挟まれるや否やテトラの間隙に流れ込もうとする水流で人もろとも張り付き動けなくなり、次第にテトラの間隙の奥深くに吸い込まれ、脱出できなくなってしまい、かなりの確率で死に至る、地元では危険な「テトラの堰」と怖れられている。
川下りの基本は、自分の危険は自分で管理する自己責任の世界ではあるが、ほんの少しのミスによって死を招き兼ねない営造物が、カヌイスト達が遊んでいるすぐ下流に存在していることには、驚きの余り言葉もでなかった。

山道省三氏が、若き頃、下ったときも、カヌーが引き込まれる事故現場に偶然、遭遇し、それについて、「地形図に表示されていない河川のこのような横断構造物は、カヌーやボートで遊ぶ人にとって、大変恐ろしい存在である。ヨーロッパではレクリエーションマップやボートが遊べる水路には、危険個所はいうに及ばず、淵や瀬、水深、サービス施設が詳細に地図に、安全のための川遊び、航行のルールが細かく記載されている。多摩川がレクリエーション河川として現実に多くの人に利用されている今日、利用ルールを含めた情報サービスが必要となっている」と書き記している。
状況はその当時とまったく変わっておらず、さらに下ると、一部左岸側には古い鉄線蛇かごが続く場所があり、ささくれだった鉄線蛇かごが、このゴムボートをバーストさせようと待ち構えていた。

20世紀末の日本では、川の法律が変わり、国を挙げて川を市民の交流、教育の場として位置付けようとはしているが、多摩川では私どものような川下りの会による交流活動や子供たちのカヌー教育が単なる「同好会の遊び」としてしか認知されていないという事実もさることながら、水を貯める、流れの勢いを止めるだけの単能目的のこのような危険な構造物が、公共事業として堂々とつくられ、存在が許されてきた不思議な先進国の河川であったという事実も2000年の多摩川礼賛記録の片隅に止めておいて欲しいものである。

万年橋付近を下る
○首都東京に残された渓谷美

この辺りの★奥多摩御岳の風景は両側に緑したたる岸壁が続く美しい渓谷である。頻繁にくぐる橋のデザインも工夫されている。時折、現れる玉砂利の河原も風情がある。
ここ奥多摩はカヌーのメッカで、二子玉川で我が会が誕生する以前は、会員の多くがここをホーム・グランドとしていた。 
日向和田、万年橋(河口から60km)付近から視界は開け、流れはゆるやかになり、両岸に広がった河原に水浴や釣り人を多く見かけるようになる。突然、谷の奥から出てきた我々に、仰天し、「どこまで行くの?」と、「羽田まで」と答える。「おじさんたち、頑張って」と声を掛けてくれる人が多かった。
青梅釜が淵公園の到着が午後1時。対岸の河原で遅い昼食。加藤、出迎え。つくってくれた温かいうどんに舌鼓を打つ。気配りに感謝。
源流から万年橋までが、東京都が管理している区間で、万年橋から下流は建設省の管理になる。

小作取水堰遠景、上流より望む


小作の堰・魚道を越える


小作取水堰 下流より望む
○風景が一変する小作の堰

午後3時頃最初の堰、狭山湖の山口貯水池へ水を引いている近代的な小作取水堰(河口より56km)に到着、ボートを堰の左岸に揚げ、ポーテッジする。ここは、容易に接岸でき、魚道を使って流し、簡単に下りられた。ここの堰を越えて、大きく左にカーブして漕ぎ下ると羽村堰(河口より54km)に到着。

小作の堰付近から谷が無くなり、風景が変わり、目の前が急に開け明るくなる。実漕走時間約4時間で18kmを下り、羽村取水堰上流で初日の行程を終える。上流側から下流側へポーテッジをして羽村市が管理している堰下流の駐車場でキャンプする。車と犬のマッキーは加藤が奥多摩から運んでくれていた。心より感謝。ここには水とトイレがあったが、川の風景の変化とともに、川への感謝の気持ちが薄れ、人のマナーも変化するのであろうか、トイレは壊れ、汚なかった。
夜半、雷を伴なった豪雨が来襲、川の水かさは見る見る間に増え、河原の中州でキャンプしていた幾つかのグループから悲鳴が聞こえ始める。懐中電灯の明かりがせわしく動き、大勢が慌ててキャンプ資材を片付け、土手に運ぶ様子が遠目からも伺え、昨年の玄倉川の悲劇が脳裏をよぎる。
我が調査隊は、豪雨にも拘わらず、高台の場所を選んだことと常用の床なしテント、GIコッド(軍用簡易ベット)、雨よけタープなど勝田が用意した車二台分のフル装備で快適な夜を過すことができた。

 

●第二日目(8/17) ― 羽村堰から四谷本宿用水堰 ―


勝田とカヌー犬マッキー

○釣人との睨み合い

17日朝、仕事がある堀内、加藤両名とはここでお別れ、「頑張って」「ご苦労さん」というエールを交換して別れる。
ラフト・ボートに換え、カナディアン・カヌー2隻で、勝田のカヌー犬、愛犬マッキーが加わり、5名と1匹で下る。朝9時30分、スタート。勝田艇に森田、マッキーが乗り、先導し、後に堀艇が、長野、中川を乗せて続くことに決定する。

釣竿の林の間を縫うように羽村堰下流からカヌーを下ろすが、「早く行け!このボケ、俺達は金を払っているんだ。」という数人の釣人の罵声に、勝田立ち上がって「お前の川か?皆のものだろ、通って何が悪い」と睨み付け、「お互いに遊びじゃないか、つまらんこというな」と負けずに堀、周囲を釣人に囲まれ、緊張が走る。
多勢に無勢ではあるが、我が会のメンバーは気合では決して負けない。緊張した雰囲気の中、2隻のカヌーは、多摩川の流れに乗る。はからずも、「世紀末の日本では舟遊びは未だ市民権を得ていない」という歴史の証人になった。


羽村の堰下流の落差工、魚道真下

○船を下ろせない堰

羽村の堰を出るとその300m、400m程下流に二つほど連続して巨大な落差工がある。下流の落差工はできたばかり、おそらく、羽村堰の基盤である土丹層の深掘れ(侵食)を防ぐ床止工であろう。
二つ目の落差工はデザインは凝っているが、前面の乱積みのブロック群が我々の通過を邪魔する。ボートは中央の魚道を、我々は壁をつたって下りる、水が流れる堰の上をボートを担いで通るが、滑りやすく危険である。
しかし、このような堰が洗掘による河床の低下と砂利の急速な流失を防いでくれているのであろう。


土丹を侵食しつつある川と森の景色










昭和堰は左岸側魚道より下る

○西欧風の河川景観をつくる土丹の川と
 ニセアカシアの林

ボートはすぐに羽村大橋を越える、その下流は土丹の川、樹林が両岸まで迫る狭い川幅の川をいっきに下る。カナダか北欧の川かと見まごう周囲を森に囲まれたプロポーションのよい景観が現れ、長野、堀、大いに感動する。多摩川にこんなすばらしい空間があったんだと興奮気味に語り合う。
しかし、前京浜工事事務所所長栗原秀人氏によれば、この付近の川底は、堰で水を取り過ぎ、暴れることがなくなったため、深掘れを続けるしかなく、少々の出水では河原は削られにくい環境になりつつあり、河原のすぐ岸辺までニセアカシアの高木、ススキが侵食し、見た目には幅と高さの比率がよい言い換えればプロポーションのよい空間に変化しているとのことである。 

問題は、昔からこの川の河原にあった河原野菊などが河原が洪水で洗われないことによって絶滅に瀕している、見た目の美しさとは別に、人間が起こした複合的な要因によって、生物世界の遷移、葛藤が起きていることを理解すべきであるとの言葉があった。
言い換えれば、西欧風の河川景観が人間の所業によって、20世紀末に生まれ、好むと好まざるとに拘わらず、昔の多摩川らしい河川環境が消えつつある現実がそこにあり、まもなく、この侵入者のニセアカシアは人間の力で伐採されるとのこと。
平井川、秋川が合流するあきる野、福生、拝島付近では流れはゆるやかになり、川幅は広くなり、美しい空間をつくっている。人の姿は釣人以外見られない。この付近は野鳥も数多く見られる。秋川が合流した下流に昭和用水堰(河口より48km)がある、ここでは左岸の魚道に沿って下ろす。マッキーが落下、危うかった。


日野用水
下りる場所なく、人も犬滑り下りる


○日野用水のパノラマ的美しさ
続いて、八高線上流の日野用水堰(平の堰)を通過するが、中州の樹木を水面に反転させた倒置景のパノラマというべき美しい水と緑の広がりがある。ここは両岸にまったくボートを下ろす場所がなく、結局、流れ落ちる堰の上に立って、一隻づつカヌーを人力で下ろし、人も犬も堰から滑り下りる。スリルがあって楽しい。ここは、工夫をすれば上下流交流で遊べるよい空間になろう

八高線下流の中州で1時頃昼食。堀、川の水で湯を沸かし温め、レトルトのカレーライスを準備。水はきれいであるが、奥多摩と水量は変わっていない。普通の川が下流になれば水量が増えるのに対し、この川は逆に減っているとのこと。この中州で長野、勝田氏の愛犬マッキーに水泳をさせる。


ボートを飲み込むほどに
深くえぐれた土丹の河床


○続く危険な土丹の河床

この辺りでは、土砂は洪水の度に堰を越えて下っているようで、すべての堰の上流部に中州がせりだしている。一旦、洪水になると、土砂は水とともに堰を越え、堰直下の土丹の河床を削りながら、転がり流れ、次の堰に上流に溜まる。そして、その繰り返しで、砂利は短期間に旅する。上流の小作の堰付近も砂利の州があるが、二子玉川兵庫島の河原の石とそれほど径が変わっていない。
このことは、多摩川が上流から下流まで川の勾配に変化がない急流河川という証左である。
この付近では河床の砂利が殆どないのではないかと思う位にに堰や落差工を越えるとすぐに洗濯板のような土丹の河床が現れる。
砂利を取りすぎ、世紀末には全体の河床が下がって基礎が剥き出しになっていると考えるのは素人考えであろうか?昔の多摩川がこのような姿で、「多摩川らしさ」というのが、このような事実を肯定するとすれば悲しいことである。

とくに、日野用水から多摩大橋までの間の大きな起伏がある洗濯板のような土丹の川底は、カヌーの航行を妨げる。途中、多摩大橋付近で、先行する勝田艇、軽いせいか、土丹の岩瀬か障害物にバランスを失い、一瞬木の葉のようにカヌーがバウから船腹を見せ、空中高くバウンドし舞い上がりるシーンもあった。勝田ラダーマン、空中で体をしなわせボートを立て直し、何事も無かったかのように波を切って進む。

一方、3人が乗っている後続の堀艇、重さで喫水が深く、ピッチングで波頭を切る度に、バウが深く潜り水を被る。カヌーの先頭が逆さ落としで岩にぶつかる度に放り出されないよう、思わず恐怖から船べりを手で掴む長野と中川に、ラダーマンの堀、「手を休めるな、漕げ!漕げ!漕ぎ抜け!」と罵声が飛ぶ。水量が多いにも拘わらず、「ごんごんごん」と船底で大きな音を立てながらボートは進む。

ボートはこのような場所で頭が振られると斜めになろうと動き、少しでも速度を落とすと横転、転覆する。水量が少ないとき土丹の岩盤を観察すると,筋状にに侵食され、実に数多くの筋が入っている。しかし、水量が多い今回のような時には、流れは真っ直ぐで、船底が筋にひっかかるとボートは斜めにもって行かれる。とにかく、強引に漕ぎぬくことが要求される。普通のゴム・ボートやファルト・ボートでは、このような岩をかむような流れを下るのは困難である。

「上流の堰やダムによって多摩川の水が奪われ、本来の「多摩川らしい空間」を保持できなくなっている、また、市民が川で遊ぶことができる水量を流していないのでは」という現京浜工事事務所所長細見寛氏の疑問も川を下ってみて実感として理解でき、「舟が安全に通れる水深確保」の必要性を痛切に感じた次第である。



○環境上議論がある土丹の河床

川が蛇行するために必要な水供給が少ないこと、土砂供給が少ないことによって、土丹のみが削られ、河床が下がり、川の複断面化が始まりつつあるのではと言われている。
環境上、コンクリート張りの洗濯板ような川底は、我々のようなカヌイストにもつらいが、生物にはもっとつらい環境であると思うのは素人考えであろうか。レキによる浄化作用も期待できず、植物も生えず、身を隠すことができず、多様な生物の棲むことができない環境になり、土丹の川底が増えれば生態系の単純化が進むことになるのではなかろうか。そして、環境にやさしい川づくりをするためには、砂利のある川底を復元させてゆく工夫が必要ではあるまいか。

現在、市民グループや専門家の間での基本的な考えは、土丹にも珪藻類が育ち、生物もいるし、それなりによい。土丹だけの川は日本にも数多くある。砂利は自然に流れるもの、河原の堆積は自然に任せるべき、それが本来の美しさである。砂利の流れを制御するなど、自然の物質循環を妨げるのは論外であるということ。

「生物も自然にまかせるというのならば、心地よい緑の空間を提供してくれるニセアカシアを切るのも自然の摂理に反する、人間による外来植物への差別では、差別で問題が解決するのか」という素朴な疑問が生まれてくる。兵庫島にもニセアカシアが大木に育っているが、市民の憩いの場になっている。新潟市の信濃川河口に注ぐ通船川の山の下閘門付近では、議論して、鳥や人にいい木陰とよい景観を提供するということで、ニセアカシアの森を残している。

20世紀に傷んだ多摩川を癒すには、根本的には人の手を加えながら、水量を増やし、砂利を流し、砂利のある河床に治癒回復してゆく工夫が、今、求められているのではないだろうか?オーバーな言い方をすれば、このままゆけば、21世紀には、川底の土丹が深くなり、その下のレキ層に到達したとき、ただでも少ない川の水が地下に消えてしまうような怖れはないのであろうか?

いずれにしても、20世紀にこのような傷ついた川底にしてしまったこと、そして、「いじらずに、そのままがよい」という議論が世紀末の多摩川の主な思潮であったという事実は記録として残して欲しいものである。


日野橋下流の床止工
一つ間違えば事故に


○危険な護岸や川底のブロック

下ってゆくうちに、恐ろしいことに、ささくれだった鉄線蛇かごの護岸や鉄筋の剥き出しになったブロックが、ボートを容赦なく傷つけようと待ち構えている。鉄線蛇かごは岸に不用意に近寄ると危ない。

ブロックであるが、深掘れした土丹の河床のところどころに埋め込まれ、それが流され、磨耗し、鉄筋がむき出しになっているらしい。水面より上に出ている鉄筋は、ゴミがひっかかり、川の中から枝のように、にょきにょき生えており、見つけ易いが、水中のものは難しく、近寄ればボートを壊し、危険極まりない。繰り返しになるが、ボートが下ることをこの川は考えていないような気がする。


昭島くじら公園・牛群地形

○昭島を越えると水質は悪くなる
八高線を越える周辺から下水の排水路とおぼしき水路から泡の混じった水が両岸から次々と流れこみ始め、川の透明度を次第に下げてゆく。立川を過ぎると川の水は周囲から流れ込む汚水で水の色は少しずつ変化を始める。どーっとは流れ込んではいないが、ブロックの隙間から、葦が生えている水路の奥から、あわ立つ水が染み込んでくる。


怪我をした中央本線下の落差工


表ー01 多摩川の用水堰

○大事故になりかけた落差工
堰や落差工であるが、この日下った堰のうち地図の上では、昭和用水堰、日野用水堰の二つの堰だけであるが、ボートの通過を妨げる橋脚の床止工、落差工は数限りなくあった。

中央本線直下の落差工では事件があった。ここの落差は1.5mほどあり、上流から確認できず、先行する勝田艇、注意深く進むも、落下直前で気付き、堰の上でカヌーから飛び降り、森田とマッキーを素早く下ろし、半分程空中にせり出したカヌーを怪力で止め、水の激しい抵抗に逆らいつつ、ヘラクレスのように腕足の筋肉の血管を膨張させながら、徐々にカヌーを上流に引き上げる。もう少しで、堰のたたきの落込みでボートを破損させ、森田も愛犬マッキーも落下で大怪我するか、ブロック穴に吸い寄せられ溺れるところであった。勝田、ボートを支える際、ブロックの間に足を挟まれ怪我、傷口が大きく開き血が流れ痛々しい。

後続の堀艇は、勝田のストップの合図で、察知、5mほどでボートから降り、真後ろに艇を横にしないよう注意して退避する。右岸下流にはブロックが埋められ、カヌーを下ろす場所もない。大きく迂回して左岸の土手沿いに下ろす。この間、勝田の怪我の治療もあり、1時間弱の時間を費やす。

橋の下には、橋脚が流されないように横断構造物として落差工、床固工があるがどの地図にもない。これは河川管理者の建設省が設置したものではなく、橋の管理者が設置したものであるからとのこと。この構造物はJR東日本が管理しているが、舟が通ることなど初めから考えてはいないのでやむを得ない。


○ 難行苦行のポーテッジ

今回、じりじり照りつける日差しを受けながら、平均年齢60歳を越えるクルーが、堰や落差工を越え、滑りやすい浅い川を渡渉するポーテッジ(カヌーやボートを数人で運ぶこと)は実際、難行苦行であった。実際、すべての堰の両岸には船着き場もなく、運べる通路や下ろす場所もない。大きく迂回し、滑り下りたり、一つの堰や落差工を通過するのに15分から30分ほど掛かった。

最長老の勝田の足からは出血が続き、中川は、奥多摩で靴を流され、慣れぬゴム草履で、長距離を漕ぎ、歩いため、足の裏の皮一枚ほとんどめくれ、血だらけ。が、誰も不満一つ言わずに歩く。彼ら一流の美学がそこにはある。
二番目に長老の森田は、2回程、川に放り出されたものの、日頃の鍛錬か、体力の消耗もなくすこぶる元気。長野、発汗激しく、水分とミネラル補給に努める。一番若い、堀はすこぶる元気。皆、大きな怪我はないが、少しずつ疲労し、痛んでゆくことが判る。60歳を越えるクルーでは、3日間の川下りが限界かと感じた。

○美しい府中用水の樹林

立川と国立の境、甲州街道の日野橋を越えて、すぐに府中用水に迷い込む。そこは幅十m程の水路で両側にはうっそうと繁った樹林帯が続き、多摩川にもヨーロッパの水辺とみまごう美しい空間があった。ここは野鳥の数も豊富である。やがて、水路はトンネルに入るので、途中の支川からポーテッジしてカヌーを本川に戻す。


ボートでは下りられない
四谷の堰の魚道


○無機質の風景が広がる立川から下流

立川を過ぎると風景は一変する。両岸の堤防には樹木がなく、無機質の殺風景な都市のコンクリートの建物群が、渓谷では見られなかった単調な構造の橋梁が数多く見えはじめる。
ゆるやかになった多摩川を下り、4時頃、国立と府中の境にある四谷本宿堰(河口から38km)に到着した。
この日は車の運搬にはサポートがなく、勝田キャプテン、堀リーダーは、疲れた体に鞭打って、出発地点の羽村までキャンプ用資材を積んだ車を取りに向かう。

その間、長野は近くのコンビニまで飲料水、食糧の調達。森田は周辺偵察、足裏と横の皮がほぼ一皮剥け、歩けなくなった中川と犬のマッキーは仲良くボートの見張りを兼ねてお休み。森田は府中市のキャンプ場を見つけてくれた。感謝。

堰の近くに府中市四谷第四公園にある青少年キャンプ訓練場があり、そこに野営。川の傍にこのようなキャンプができる場所があるのは本当にうれしい。車は6時前に到着、すぐに勝田、堀はキャンプ設営、料理を作り始める。70歳になろうとしている勝田の超人ぶりには、只驚嘆するのみ。

平野に出て来た、二日目の行程は、堰、落差工、渡渉する瀬が多く、難行苦行、荒瀬のパドルワークも困難を極めた。実漕走距離は5時間で16km。もし、堰がなければ、府中用水に入らなければ2時間ほどは前に進め、大丸用水堰付近までは、行けたことであろう。

その夜食事中のこと、全国の川を下っている勝田曰く、「川下りというものは、まずは楽しくなくてはならない。耐久レースのような川下りもあるが、それは難行苦行で面白くない。面白い限度は一日、4、5時間、15km/日が目安だろう。そうすれば楽しくできるし、事故も起きない。」このような旅では、とかく、急ぎがちになるが、長年の経験者の傾聴に値する言葉である。
難行苦行を経験した長野、中川、堀、アルコールの入った水が出てきて元気回復、夜が白むまで語り明かす。

 

●最終日 (8/18) ― 二ケ領上河原用水から二子玉川へ ―


二ケ領上河原堰 

○普及していない堰でのボート遊び

最終日18日、この日だけで河口までは物理的に漕走できないということで、臨機応変、四谷本宿堰から14kmの区間をスキップし、川崎側稲田堤の二ケ領用水堰(河口から26km)から二子玉川まで下ることで今回は終了ということで、上河原堰は堀のホーム・グランド、上流の茶店前に11時にカヌーを下ろし、下り始める。今日から陸上サポート隊が加わる。縁の下の力持ちの杉浦である。本当に有り難い。

上河原堰のカヌーの堰越えポーテッジは右岸側の魚道に沿って、人力で運び下ろす。ここは楽に下ろすことができた。堰を越えるとすぐに早瀬があり、鮎釣りの人の間を縫うように走り下る。        
ここで新しい仲間が加わる。堀リーダーの愛犬、アンジュである。マッキーは、最終日サポートしてくれる杉浦と車で移動、アンジュがこの日は代わりにマスコット犬になる。むさくるしい男達の乗ったカヌーの中で犬がいることは、心をなごませるのか、「あ、犬が乗っている」と子供達が近付き、手を振ってくれる。
ここにはボート小屋と茶店があり、我が会員の堀はここで、カヌー下りをしているが、まだ、多くの仲間がいる訳ではない。日本の場合、ヨーロッパと比べて、まだカヌーの川遊びは普及していない。

ヨーイ、ドン、全国Eボート大会


世田谷、川崎対岸交流親子カヌー教室


親子カヌー教室、パドルの練習

○ボート遊びが始まった宿河原堰

小田急線鉄橋付近から流れはゆるやかになり、平成11年、河川法改正の直後に完成した二ケ領宿河原堰のダム湖に入る。この堰の水面では狛江側ではイカダレースが毎年行われているし、全国Eボート大会も開かれている。

しかし、川崎側は舟遊びができるような護岸になっておらず、手すりがボートを係留することを邪魔をする。我々は右岸側にボートを着けるが、用水の下流がすぐに魚道になっており、手すりもあり、カヌーを上げるには危険で、やむなく狛江側の左岸の長い距離をポーテッジする。
多摩川・リバーシップの会は、この2000年8月、川崎市の市民と「親子カヌー教室」をこの宿河原堰の上流の川崎側で開いた。レスキューから、カヌーの技術指導まで一般的な技術指導を行ない、市民レベルで初めて世田谷、川崎の対岸交流を行った。
ここの水面は大変よいが、昔の堰にはあったという舟を下ろす舟通しがないし、川崎側はボートを岸から下ろせないのが残念である。もし施設があれば、宿河原堰から狛江、川崎、世田谷の舟が一緒に遊び、下ることができるが残念である。

さて、我々のボートは堰の直下から、スタートしたが、基岩の土丹の洗掘を防ぐ床止め工のブロックがあった。2名が乗った勝田艇は喫水が浅く、ブロックの上をうまく乗り越え進んだが、3名乗船の堀艇は喫水が深く、カヌーがブロックに挟まり、体をゆすっても進むことができず、カヌーが横になろう、横になろうと動き、危険な状態を繰り返すため、カヌーを降り、注意深く押しながら進む。ブロックが無くなった付近から、早瀬になり、あっという間に東名高速道路の橋を通過する。

野川側から見た兵庫島と多摩川
○美しい二子玉川の河原と崖線の緑

東名高速道路を越えた瀬田辺りから左岸に国分寺崖線の緑が迫り、川から見た左岸世田谷側の景色は丘の緑が映えて美しい。但し、多摩川八景の兵庫島は崖線の緑に隠れてしまい、陸側から見たほうが、川の中に浮かぶ島ということで風情がある。二子玉川兵庫島と対岸二子新地の河畔は、上流から下流まで下った中で最も多くの人が川を利用し、遊んでいる場所であった。        

世田谷側では野川が合流していることもさることながら、川底から崖線の水が湧水が湧いてくるのであろう。いつもながら、世田谷側の多摩川の水の透明度は高い。

藤田さんとダンボールの屋形船


森田、斎藤会員の手作りボート 
〇ついにゴール!

午後2時半に最近話題になっている仲間の藤田道代さんの経営する紙ダンボールの創作工房「たまがわファクトリー」がある川崎側の二子新地に着き、エールを受け、通過、午後3時に世田谷側の二子玉川自動車学校前(河口から18km)の今回のゴールに到着した。     

藤田さんはテレビでも話題になったが、多摩川で下れるダンボールの舟をつくっている。その他、我が会では、森田、斎藤両名が多摩川にふさわしいボートづくりに励んでいる。かばん屋の斎藤さん、ミシンに載って、巨大なスニーカのようなボートをつくってしまった。このような活動が、21世紀の新しい川の文化をつくると信じている。

川下りは、多くの楽しい交流を生み、これは、将来、新しい文化をつくることに繋がる。将来、かって上流から下流に筏下りの人々が築いたような川の駅ができ、上下流の交流ができる川になることを望むものである。

我々の3日目、8月18日の漕走距離は8km、3日間の全漕走距離は44kmであった。この日の車の運搬は杉浦にお願いしたので、助かった。二ケ領上河原堰から二子まで2回の車の回送は花火大会があり、車が入れず苦労したとのこと。感謝。

 

●参考追記   ― 二子玉川から調布堰 ―(2000年の記録)

二子多摩川から下流は我が会のフィールドである。ここが基地としてふさわしいのはトイレがあること、とくに、身障者のトイレがあることで、老若男女が川下りや遊びに参加できることである。次に景色がよいことと、河原があることで、東京23区でこのような河原があるのは世田谷区だけである。   
ここで、我が会主催の川下り大会、世田谷や川崎の川遊びの指導、サポートを行っている。また、当会は河川清掃、いい風景づくりも行っている。
この砂利の河原は貴重な財産であり、大切に扱う必要がある。我々も川底をじゃり、じゃり擦りながらの川下りは、安心で風情がある。


             
       川底のゴミを拾う会員                 保護運動が起きている二子の中州 


○美しい中州を護ろう
二子玉川からの川下りのポイントであるが、まず、田園都市線鉄橋、旧246号の道路橋の床止工が要注意である。この二つの鉄橋を通る場合、左岸の世田谷側を慎重に通過することが要求される。

澪筋は野川と多摩川本流の中州の武蔵工業大学が主催し、当会が協力してつくった牛枠側に沿って進むが、まもなく、柳が繁った中州の丘付近からほぼ直角に川崎側護岸に本流は落ちるようにぶつかる(昨年8月の洪水以前には、澪はここから逆に左岸東急自動車学校の方に大きく落ちて、そのまま左岸の堤沿いに走っていたが、洪水によってこの中州の背後に数百メートル新しい中州が形成され、流れは大きく変わった)。

ここの中州は、東京23区に残された唯一の川の自然の緑多い中州で、雉や狸が棲んでおり、岸から見た風景も素晴らしく、世田谷の財産である。牛枠はそれを護るために、建設省の指導を得て1999年に実験的に武蔵工業大学とボランティアの手によってつくられた。渇水時期の川の流れの縁に牛枠を置いたが、現在、川はさらに細り、牛枠を離れたところを流れるようになった。河床が下がっているのか、流量が少なくなったのか原因は不明である。

          
          中州を護る牛枠                           牛枠をつくる


川崎側に流れた本流は、護岸水衝部のブロックにぶつかる。護岸への衝突を避けるために、ボートは早めに舵を左に切り、2m程岸を離れて平行に進むことを薦める。水面下には崩れたブロックが隠れており、ボートを傷つけるからである。このような水衝部のブロックにカヌーがぶつかると、我が会員が過去に経験しているが、舳先をはさまれ大事故になる。

そして、澪は再び、第三京浜鉄橋の上流から世田谷側にゆっくり瀬をつくりまがら曲がり、世田谷側の堤防に沿って進み、橋の下を通る。この間は深さもあり安全である。

第三京浜下流200mに武蔵工業大学と協力してつくったワンドが見えてくる。ワンドはつくって3年になるが、毎年、数回、清掃や維持に努めているが、当初はかなり、深い入江をつくったつもりであったが、前面の川床が低くなっているのか、埋没したのか最近、水がない状態が続いている。

その10m程手前に、岩のような大きなコンクリート塊が3箇所程ある。これは、橋脚の床止め工か何かの工事で使って余ったコンクリートを不法に捨て流したものであろう、カヌーやゴムボートをここに寄せることは危険である。とくに、流量のある時には、水面下に隠れ、ボートを傷つけようと待ち構えている。

この橋から200m下流のワンド付近は、アドベンチャー多摩川イカダ・レースの出発地点である。このレースは世田谷区青少年委員会が主催、全区の児童館が参加して子供達の手作りイカダのレースで世田谷地区の最大の川遊びイベントである。
リバーシップの会は毎年、事故防止のサポート隊多数の会員を動員してこの事業に協力している。ここから下流は渇水時期でも舟遊びができる。

               
       修理直後のワンドの風景               世田谷区青少年委員会主催の筏レース  

ここからすぐに流れは川崎側に流れ、15km付近の谷沢川河口の排水口付近で再び世田谷側に向かう、この排水口はブロックが本流までせり出し、鉄筋が水面のみならず水中に無数に潜んでおり、危険で近付かない方がよい。ここは放置しておけば、将来川遊びの人に犠牲者がでよう。

東急ゴルフ場付近は水深は深く、流れはゆるく舟は安全である。巨人軍のグランド前、本流は蛇行しながら、浅瀬をいくつも越え、左に曲がり調布堰のダム湖に達する。我々がカヌー島と呼んでいた昼食を取っていた中州は、昨年の8.14洪水によって消滅した。この付近の瀬は、毎年変化するので一定ではない。

多摩川台公園は、桜の時期、川から眺める桜は天下一品である。花吹雪舞う中、舟を漕ぐのも川遊びの冥利に尽きる。
調布堰は手続きをすれば閘門を通過させて貰える。堰の通過のために玉川台公園側にボートを寄せていくことが必要、間違っても右岸には近付かないこと、さもないと、ボートは1、2m下に堰から落下することになる。  


           
       風情がある桜の時期の川下り                 調布堰通過の当会のボート群  


調布堰から下流は感潮河川であり、潮を見て下る必要がある。風向き南で、上潮時には、ボートは下流に進むことは大変消耗するし、潮の香りを感じるが川からの景色は扁平で単調になる。ここで、我々の旅も終わる。


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