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●はじめに 多摩川の舟運は、江戸の城都の建設とその後の度重なる火災復興のために、奥多摩の木材が筏によって流されたことが嚆矢とされている。やがて、荷駄を積んだ舟が、登戸まで上り、甲州街道と馬の背で結ばれるに至った。明治になり、首都東京の建設のための砂利採取がこの川でブームとなり、流域に大いなる繁栄をもたらした。 これら木材や砂利の輸送は、近年まで続き、二子玉川など拠点の町に周辺農村とは一味違った華やかな歴史と文化を醸成させてきたといえる。その拠点二子玉川には、川湊があり、屋形船による趣のある舟遊びの風景があった。 往時の多摩川の筏下り 多くの船で賑わう世田谷の川湊 平成9年の河川法改正によって、忘れ去られていた舟を通す営みが全国的に認められ、復活できるようになった。 平成10年、現代版多摩川の舟遊びを復活させることによって、昔の舟運を顕彰し、交流を促進し、21世紀の舟遊び文化を創造し、いい川づくりを実践するために、我らがボランティア・グループ「多摩川・リバーシップの会」が関係方面のご理解を得て発足された。 そして、今回、我が会として、多摩川の流域全体、対岸交流のために、ゴムボート、カヌーなどによる舟遊びが可能かどうか、遊び心で20世紀最後の夏に上流から河口付近まで下って見ようということになり、有志を募り、実行に移した。 この報告書は上流から河口付近まで、実際に下って、多摩川という川を我々なりに理解したこと、気付いたこと、今後の課題とあわせて、二子玉川での我々の活動を20世紀最後の記録として、後世に残すためにまとめさせて戴いた。 往時の二子玉川の屋形船による舟遊び 1988年4月最初の川下りの記念写真 |
●楽観的かつ弾力的な計画づくり 川下り調査は、平成12年8月16日(水)から18日(金)の3日間掛けて、奥多摩から河口の羽田まで下ることを考えた。初日は奥多摩御岳渓谷第三発電所前(杣の小橋上流:河口から73km)より、福生多摩川中央公園付近(河口から54Km)まで約29kmを、二日目は二子玉川付近までの25kmを、三日目は大師橋もしく羽田まで19kmを、合計73kmを下るという計画であった。 川の中の情報が殆ど得られかったが、途中には堰が多い、土丹があり浅く、かなり川床を歩くことになる、大田区田園調布付近まで勾配がそれ程変わらない急流河川とごく普通の情報をつなぎあわせて理解し、堰で水があれば、流れに乗れば楽に下れると楽観的に考えていた。しかし、一方では、状況の変化にすみやかに対応できるような段取りも行った。 すなわち、途中の天候、流況の変化を考慮し、お盆の時期であり、サポートの応援スタッフが十分でないことも勘案し、堤防上の道路交通事情も判らないことなどから、途中キャンプしながら、弾力的に対応し、とにかく出来るところまで下り、スキップすることもあり得べしという合意を得て実施した。 上流部の御岳渓谷から福生まではラフト・ボートで、そこから下流はカナディアン・カヌーで下ることとした。そして、結果として全行程の6割の44kmを下ることができた、もしくは、それしかできなかったというべきか、計画と現実の乖離について様々な角度から分析、将来の多摩川の舟下りの可能性について評価したいと思う。 参加者は堀展史(統括リーダー)、勝田勝(川下りリーダー)、堀内道夫、森田皓一、中川三郎、長野正孝、加藤真紀子、杉浦剛の8名と勝田の愛犬マッキーで、加藤、杉浦には車、食事のサポートをお願いした。 クルー6名の年齢は、最年少48歳、最高齢69歳、平均は還暦を越えた61歳であったが、心は血気盛んな若者達であった。 7、8名が3日間一緒にキャンプできる資材、食料、ボート3隻を2台の車に積んで、15日夜に世田谷を出発、夜11時に御岳渓谷でキャンプを張った。杉浦を除く全員そろっての打ち合わせは、出発前日深夜のキャンプ場となった。 前夜のキャンプでの打ち合わせ 出発当日のキャンプの様子 |
●第一日目(8/16) ― 御岳渓谷から羽村堰まで ―
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○スリリングな奥多摩下り |
ホワイト・ウォーターの連続 張りつくぞ!! |
〇アクシデント |
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○危険な横断構造物―テトラの堰 やがて、再び5名全員を乗せたボートは、二俣尾付近から少しゆるやかになった流れにまかせて下るが、三箇所の落差工(流れを弱めるためにつくられた堰)が待ち構えていた。小さな二つの落差工は水量が十分あり、容易に乗り越えることが出来たが、石神前の俗称「テトラ(正確にはテトラポットではない)の堰」というブロックを積んだ大きな堰の通過はトラブルであった。 この堰は奥多摩最大の落差工で、過去幾人もの人名を奪ってきたといわれている危険な構造物である。我々が下る前の週にカヌイストがここで1人死亡したとか。事前に「多摩川センター」の山道省三氏から戴いたガイドブックによると、「右岸側を通過できる」とあるが、水流が激しく、しかも、前面に岩があり危険で、乗ったまま越えるのは無理と判断し、降りて左岸を渉ることにした。 クルーは左岸の岩壁伝いに下り、下流で待つ。勝田ラダーマンだけがボートに乗り、左岸のテトラを右左にかわしながら強引に押し下る。よく見ると中央部のテトラは太い鉄の鎖で繋がれ、壊れたものは鉄筋が剥き出しになっており、ぶつかれば、ゴムボートやカヌーはひとたまりもない。 これらの堰は洗掘防止、農業用水の取水が目的あるとのことであるが、人間の安全はまったく考えてはいないようである。 この堰の構造上の欠陥は、テトラの間にカヌーやゴムボートが挟まれるや否やテトラの間隙に流れ込もうとする水流で人もろとも張り付き動けなくなり、次第にテトラの間隙の奥深くに吸い込まれ、脱出できなくなってしまい、かなりの確率で死に至る、地元では危険な「テトラの堰」と怖れられている。 川下りの基本は、自分の危険は自分で管理する自己責任の世界ではあるが、ほんの少しのミスによって死を招き兼ねない営造物が、カヌイスト達が遊んでいるすぐ下流に存在していることには、驚きの余り言葉もでなかった。 山道省三氏が、若き頃、下ったときも、カヌーが引き込まれる事故現場に偶然、遭遇し、それについて、「地形図に表示されていない河川のこのような横断構造物は、カヌーやボートで遊ぶ人にとって、大変恐ろしい存在である。ヨーロッパではレクリエーションマップやボートが遊べる水路には、危険個所はいうに及ばず、淵や瀬、水深、サービス施設が詳細に地図に、安全のための川遊び、航行のルールが細かく記載されている。多摩川がレクリエーション河川として現実に多くの人に利用されている今日、利用ルールを含めた情報サービスが必要となっている」と書き記している。 状況はその当時とまったく変わっておらず、さらに下ると、一部左岸側には古い鉄線蛇かごが続く場所があり、ささくれだった鉄線蛇かごが、このゴムボートをバーストさせようと待ち構えていた。 20世紀末の日本では、川の法律が変わり、国を挙げて川を市民の交流、教育の場として位置付けようとはしているが、多摩川では私どものような川下りの会による交流活動や子供たちのカヌー教育が単なる「同好会の遊び」としてしか認知されていないという事実もさることながら、水を貯める、流れの勢いを止めるだけの単能目的のこのような危険な構造物が、公共事業として堂々とつくられ、存在が許されてきた不思議な先進国の河川であったという事実も2000年の多摩川礼賛記録の片隅に止めておいて欲しいものである。 |
万年橋付近を下る |
○首都東京に残された渓谷美 この辺りの★奥多摩御岳の風景は両側に緑したたる岸壁が続く美しい渓谷である。頻繁にくぐる橋のデザインも工夫されている。時折、現れる玉砂利の河原も風情がある。 ここ奥多摩はカヌーのメッカで、二子玉川で我が会が誕生する以前は、会員の多くがここをホーム・グランドとしていた。 日向和田、万年橋(河口から60km)付近から視界は開け、流れはゆるやかになり、両岸に広がった河原に水浴や釣り人を多く見かけるようになる。突然、谷の奥から出てきた我々に、仰天し、「どこまで行くの?」と、「羽田まで」と答える。「おじさんたち、頑張って」と声を掛けてくれる人が多かった。 青梅釜が淵公園の到着が午後1時。対岸の河原で遅い昼食。加藤、出迎え。つくってくれた温かいうどんに舌鼓を打つ。気配りに感謝。 源流から万年橋までが、東京都が管理している区間で、万年橋から下流は建設省の管理になる。 |
小作取水堰遠景、上流より望む 小作の堰・魚道を越える 小作取水堰 下流より望む |
○風景が一変する小作の堰 午後3時頃最初の堰、狭山湖の山口貯水池へ水を引いている近代的な小作取水堰(河口より56km)に到着、ボートを堰の左岸に揚げ、ポーテッジする。ここは、容易に接岸でき、魚道を使って流し、簡単に下りられた。ここの堰を越えて、大きく左にカーブして漕ぎ下ると羽村堰(河口より54km)に到着。 小作の堰付近から谷が無くなり、風景が変わり、目の前が急に開け明るくなる。実漕走時間約4時間で18kmを下り、羽村取水堰上流で初日の行程を終える。上流側から下流側へポーテッジをして羽村市が管理している堰下流の駐車場でキャンプする。車と犬のマッキーは加藤が奥多摩から運んでくれていた。心より感謝。ここには水とトイレがあったが、川の風景の変化とともに、川への感謝の気持ちが薄れ、人のマナーも変化するのであろうか、トイレは壊れ、汚なかった。 夜半、雷を伴なった豪雨が来襲、川の水かさは見る見る間に増え、河原の中州でキャンプしていた幾つかのグループから悲鳴が聞こえ始める。懐中電灯の明かりがせわしく動き、大勢が慌ててキャンプ資材を片付け、土手に運ぶ様子が遠目からも伺え、昨年の玄倉川の悲劇が脳裏をよぎる。 我が調査隊は、豪雨にも拘わらず、高台の場所を選んだことと常用の床なしテント、GIコッド(軍用簡易ベット)、雨よけタープなど勝田が用意した車二台分のフル装備で快適な夜を過すことができた。 |
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○釣人との睨み合い |
羽村の堰下流の落差工、魚道真下 |
○船を下ろせない堰 |
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○西欧風の河川景観をつくる土丹の川と ニセアカシアの林 ボートはすぐに羽村大橋を越える、その下流は土丹の川、樹林が両岸まで迫る狭い川幅の川をいっきに下る。カナダか北欧の川かと見まごう周囲を森に囲まれたプロポーションのよい景観が現れ、長野、堀、大いに感動する。多摩川にこんなすばらしい空間があったんだと興奮気味に語り合う。 しかし、前京浜工事事務所所長栗原秀人氏によれば、この付近の川底は、堰で水を取り過ぎ、暴れることがなくなったため、深掘れを続けるしかなく、少々の出水では河原は削られにくい環境になりつつあり、河原のすぐ岸辺までニセアカシアの高木、ススキが侵食し、見た目には幅と高さの比率がよい言い換えればプロポーションのよい空間に変化しているとのことである。 問題は、昔からこの川の河原にあった河原野菊などが河原が洪水で洗われないことによって絶滅に瀕している、見た目の美しさとは別に、人間が起こした複合的な要因によって、生物世界の遷移、葛藤が起きていることを理解すべきであるとの言葉があった。 言い換えれば、西欧風の河川景観が人間の所業によって、20世紀末に生まれ、好むと好まざるとに拘わらず、昔の多摩川らしい河川環境が消えつつある現実がそこにあり、まもなく、この侵入者のニセアカシアは人間の力で伐採されるとのこと。 平井川、秋川が合流するあきる野、福生、拝島付近では流れはゆるやかになり、川幅は広くなり、美しい空間をつくっている。人の姿は釣人以外見られない。この付近は野鳥も数多く見られる。秋川が合流した下流に昭和用水堰(河口より48km)がある、ここでは左岸の魚道に沿って下ろす。マッキーが落下、危うかった。 |
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○日野用水のパノラマ的美しさ |
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○続く危険な土丹の河床 |
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○環境上議論がある土丹の河床 |
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○危険な護岸や川底のブロック |
昭島くじら公園・牛群地形 |
○昭島を越えると水質は悪くなる |
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○大事故になりかけた落差工 |
○ 難行苦行のポーテッジ |
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○無機質の風景が広がる立川から下流 |
●最終日 (8/18) ― 二ケ領上河原用水から二子玉川へ ―
| ○普及していない堰でのボート遊び 最終日18日、この日だけで河口までは物理的に漕走できないということで、臨機応変、四谷本宿堰から14kmの区間をスキップし、川崎側稲田堤の二ケ領用水堰(河口から26km)から二子玉川まで下ることで今回は終了ということで、上河原堰は堀のホーム・グランド、上流の茶店前に11時にカヌーを下ろし、下り始める。今日から陸上サポート隊が加わる。縁の下の力持ちの杉浦である。本当に有り難い。 上河原堰のカヌーの堰越えポーテッジは右岸側の魚道に沿って、人力で運び下ろす。ここは楽に下ろすことができた。堰を越えるとすぐに早瀬があり、鮎釣りの人の間を縫うように走り下る。 ここで新しい仲間が加わる。堀リーダーの愛犬、アンジュである。マッキーは、最終日サポートしてくれる杉浦と車で移動、アンジュがこの日は代わりにマスコット犬になる。むさくるしい男達の乗ったカヌーの中で犬がいることは、心をなごませるのか、「あ、犬が乗っている」と子供達が近付き、手を振ってくれる。 ここにはボート小屋と茶店があり、我が会員の堀はここで、カヌー下りをしているが、まだ、多くの仲間がいる訳ではない。日本の場合、ヨーロッパと比べて、まだカヌーの川遊びは普及していない。 |
ヨーイ、ドン、全国Eボート大会
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○ボート遊びが始まった宿河原堰 小田急線鉄橋付近から流れはゆるやかになり、平成11年、河川法改正の直後に完成した二ケ領宿河原堰のダム湖に入る。この堰の水面では狛江側ではイカダレースが毎年行われているし、全国Eボート大会も開かれている。 しかし、川崎側は舟遊びができるような護岸になっておらず、手すりがボートを係留することを邪魔をする。我々は右岸側にボートを着けるが、用水の下流がすぐに魚道になっており、手すりもあり、カヌーを上げるには危険で、やむなく狛江側の左岸の長い距離をポーテッジする。 多摩川・リバーシップの会は、この2000年8月、川崎市の市民と「親子カヌー教室」をこの宿河原堰の上流の川崎側で開いた。レスキューから、カヌーの技術指導まで一般的な技術指導を行ない、市民レベルで初めて世田谷、川崎の対岸交流を行った。 ここの水面は大変よいが、昔の堰にはあったという舟を下ろす舟通しがないし、川崎側はボートを岸から下ろせないのが残念である。もし施設があれば、宿河原堰から狛江、川崎、世田谷の舟が一緒に遊び、下ることができるが残念である。 さて、我々のボートは堰の直下から、スタートしたが、基岩の土丹の洗掘を防ぐ床止め工のブロックがあった。2名が乗った勝田艇は喫水が浅く、ブロックの上をうまく乗り越え進んだが、3名乗船の堀艇は喫水が深く、カヌーがブロックに挟まり、体をゆすっても進むことができず、カヌーが横になろう、横になろうと動き、危険な状態を繰り返すため、カヌーを降り、注意深く押しながら進む。ブロックが無くなった付近から、早瀬になり、あっという間に東名高速道路の橋を通過する。 |
野川側から見た兵庫島と多摩川 |
○美しい二子玉川の河原と崖線の緑 東名高速道路を越えた瀬田辺りから左岸に国分寺崖線の緑が迫り、川から見た左岸世田谷側の景色は丘の緑が映えて美しい。但し、多摩川八景の兵庫島は崖線の緑に隠れてしまい、陸側から見たほうが、川の中に浮かぶ島ということで風情がある。二子玉川兵庫島と対岸二子新地の河畔は、上流から下流まで下った中で最も多くの人が川を利用し、遊んでいる場所であった。 世田谷側では野川が合流していることもさることながら、川底から崖線の水が湧水が湧いてくるのであろう。いつもながら、世田谷側の多摩川の水の透明度は高い。 |
藤田さんとダンボールの屋形船 森田、斎藤会員の手作りボート |
〇ついにゴール! 午後2時半に最近話題になっている仲間の藤田道代さんの経営する紙ダンボールの創作工房「たまがわファクトリー」がある川崎側の二子新地に着き、エールを受け、通過、午後3時に世田谷側の二子玉川自動車学校前(河口から18km)の今回のゴールに到着した。 藤田さんはテレビでも話題になったが、多摩川で下れるダンボールの舟をつくっている。その他、我が会では、森田、斎藤両名が多摩川にふさわしいボートづくりに励んでいる。かばん屋の斎藤さん、ミシンに載って、巨大なスニーカのようなボートをつくってしまった。このような活動が、21世紀の新しい川の文化をつくると信じている。 川下りは、多くの楽しい交流を生み、これは、将来、新しい文化をつくることに繋がる。将来、かって上流から下流に筏下りの人々が築いたような川の駅ができ、上下流の交流ができる川になることを望むものである。 我々の3日目、8月18日の漕走距離は8km、3日間の全漕走距離は44kmであった。この日の車の運搬は杉浦にお願いしたので、助かった。二ケ領上河原堰から二子まで2回の車の回送は花火大会があり、車が入れず苦労したとのこと。感謝。 |
●参考追記 ― 二子玉川から調布堰 ―(2000年の記録) 二子多摩川から下流は我が会のフィールドである。ここが基地としてふさわしいのはトイレがあること、とくに、身障者のトイレがあることで、老若男女が川下りや遊びに参加できることである。次に景色がよいことと、河原があることで、東京23区でこのような河原があるのは世田谷区だけである。 ここで、我が会主催の川下り大会、世田谷や川崎の川遊びの指導、サポートを行っている。また、当会は河川清掃、いい風景づくりも行っている。 この砂利の河原は貴重な財産であり、大切に扱う必要がある。我々も川底をじゃり、じゃり擦りながらの川下りは、安心で風情がある。 川底のゴミを拾う会員 保護運動が起きている二子の中州 ○美しい中州を護ろう 二子玉川からの川下りのポイントであるが、まず、田園都市線鉄橋、旧246号の道路橋の床止工が要注意である。この二つの鉄橋を通る場合、左岸の世田谷側を慎重に通過することが要求される。 澪筋は野川と多摩川本流の中州の武蔵工業大学が主催し、当会が協力してつくった牛枠側に沿って進むが、まもなく、柳が繁った中州の丘付近からほぼ直角に川崎側護岸に本流は落ちるようにぶつかる(昨年8月の洪水以前には、澪はここから逆に左岸東急自動車学校の方に大きく落ちて、そのまま左岸の堤沿いに走っていたが、洪水によってこの中州の背後に数百メートル新しい中州が形成され、流れは大きく変わった)。 ここの中州は、東京23区に残された唯一の川の自然の緑多い中州で、雉や狸が棲んでおり、岸から見た風景も素晴らしく、世田谷の財産である。牛枠はそれを護るために、建設省の指導を得て1999年に実験的に武蔵工業大学とボランティアの手によってつくられた。渇水時期の川の流れの縁に牛枠を置いたが、現在、川はさらに細り、牛枠を離れたところを流れるようになった。河床が下がっているのか、流量が少なくなったのか原因は不明である。 中州を護る牛枠 牛枠をつくる 川崎側に流れた本流は、護岸水衝部のブロックにぶつかる。護岸への衝突を避けるために、ボートは早めに舵を左に切り、2m程岸を離れて平行に進むことを薦める。水面下には崩れたブロックが隠れており、ボートを傷つけるからである。このような水衝部のブロックにカヌーがぶつかると、我が会員が過去に経験しているが、舳先をはさまれ大事故になる。 そして、澪は再び、第三京浜鉄橋の上流から世田谷側にゆっくり瀬をつくりまがら曲がり、世田谷側の堤防に沿って進み、橋の下を通る。この間は深さもあり安全である。 第三京浜下流200mに武蔵工業大学と協力してつくったワンドが見えてくる。ワンドはつくって3年になるが、毎年、数回、清掃や維持に努めているが、当初はかなり、深い入江をつくったつもりであったが、前面の川床が低くなっているのか、埋没したのか最近、水がない状態が続いている。 その10m程手前に、岩のような大きなコンクリート塊が3箇所程ある。これは、橋脚の床止め工か何かの工事で使って余ったコンクリートを不法に捨て流したものであろう、カヌーやゴムボートをここに寄せることは危険である。とくに、流量のある時には、水面下に隠れ、ボートを傷つけようと待ち構えている。 この橋から200m下流のワンド付近は、アドベンチャー多摩川イカダ・レースの出発地点である。このレースは世田谷区青少年委員会が主催、全区の児童館が参加して子供達の手作りイカダのレースで世田谷地区の最大の川遊びイベントである。 リバーシップの会は毎年、事故防止のサポート隊多数の会員を動員してこの事業に協力している。ここから下流は渇水時期でも舟遊びができる。 修理直後のワンドの風景 世田谷区青少年委員会主催の筏レース ここからすぐに流れは川崎側に流れ、15km付近の谷沢川河口の排水口付近で再び世田谷側に向かう、この排水口はブロックが本流までせり出し、鉄筋が水面のみならず水中に無数に潜んでおり、危険で近付かない方がよい。ここは放置しておけば、将来川遊びの人に犠牲者がでよう。 東急ゴルフ場付近は水深は深く、流れはゆるく舟は安全である。巨人軍のグランド前、本流は蛇行しながら、浅瀬をいくつも越え、左に曲がり調布堰のダム湖に達する。我々がカヌー島と呼んでいた昼食を取っていた中州は、昨年の8.14洪水によって消滅した。この付近の瀬は、毎年変化するので一定ではない。 多摩川台公園は、桜の時期、川から眺める桜は天下一品である。花吹雪舞う中、舟を漕ぐのも川遊びの冥利に尽きる。 調布堰は手続きをすれば閘門を通過させて貰える。堰の通過のために玉川台公園側にボートを寄せていくことが必要、間違っても右岸には近付かないこと、さもないと、ボートは1、2m下に堰から落下することになる。 風情がある桜の時期の川下り 調布堰通過の当会のボート群 調布堰から下流は感潮河川であり、潮を見て下る必要がある。風向き南で、上潮時には、ボートは下流に進むことは大変消耗するし、潮の香りを感じるが川からの景色は扁平で単調になる。ここで、我々の旅も終わる。 |
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