はじめに  

多摩川らしさ、を考える
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多摩川らしさ、を考える


我々、多摩川・リバーシップの会は、人を川に入れることによって、入ることによって川がきれいになる、よくなると信じて活動している。「川から見れば川がわかる」を合言葉に、多摩川を中心に多くの実践活動と交流、提案を重ねてきた。事故のない川、ゴミがない川は、実際に川を下リ、水の流れに身をゆだねた者だけがそれを体で会得することができるからである。

多摩川の歴史をひもとくまでもなく、川を下るということは古来からの人間の営みでそれを差し止めることは、何人もできない筈である。我々のようなグループの楽しみを奪うこともできないであろう。
しかし、一方では、治水は治水だけ、利水は住民に対して供給する量と水質だけを考えればよく、多摩川ではこのような舟を通す試みや活動はなじまないとする一部ではあるが、視野の狭い無謬性というべき行政の論理が、今なお根強く存在していることも事実である。

堰のような構造物は、洋の東西を問わず、川に生業を求め、川で遊ぶ者にとっても必要かつ欠くべからざる存在である。セーヌ川も、上流の堰やダムが無ければ、年間数十日は干上がった川になり、パリ名物のバトー・ムッシュ(セーヌ川の観光船)も営業することはできないであろうし、多摩川でも同じで、二子玉川辺りは梅雨時、台風時期はどっと流れ、残りの時期は干上がった河原だけがある川になろう。したがって、水の流し方をうまく考えた堰は不可欠である。

ヨーロッパでは河川だけでなく、運河や堰の水も実に多様な形で楽しく市民が空間として利用し、参加している。運河のサミット(分水嶺)に水を供給する人造湖の湖岸にはキャンプ場が整備され、ヨットやウインドサーフィンを楽しむ若い人が数多く見られるが、日本ではダム湖でもそのような空間例は数少ない。下れない堰が雄弁に語っているように、要は人間を考えて構造物を創ってきたかどうかの違いがあるようである。

20世紀末の日本は行政も市民も我々の行っているような舟遊びを未だ完全には認知していないし、行政が市民を遊ばせる術を知らないことも事実であるが、まず、遊ばせることができる空間が数多く地域資源として存在していることを知らないのではないかと思われる。堰や急流での遊びの文化がこの川で芽生えるまで今少し掛かりそうである。

ヨーロッパでは、治水、利水だけを考えてきたのではなく、環境、景観、学習、レクリエーションを含めた総合的な水利用「Waterways Management」を確立しており、市民もそれを正しい方向と認めており、反対運動ではなく、一緒に考えてゆくという風土が醸成されている。現実に応援団がいるのである。

今、吉野川第十堰の是非論が国民レベルで行われているが、堰で蓄えられた水が治水、利水の議論だけではなく、堰のつくる水辺がよりよい空間、学習の場として市民に身近なものにする工夫が全国規模でなされてきておれば、少しは違った議論になっていたかも知れない。

多摩川の中流域は、河床の砂利が殆どないのではないかと思う位に、堰や落差工を越えるとすぐに洗濯板のようなあらあらしい土丹の河床が現れる。土砂は洪水の度に堰を超えて下っているようで、すべての堰の上流部に中州がせりだしている、おそらく、一旦洪水になると、土砂は水とともに堰を越え、堰直下の土丹の河床を削りながら、一気に転がり流れ、次の堰に上流に溜まる。したがって、土丹の川底が進行していると思われる。

注意深く河原の石を見ると、淺川からの流入もあるが、上流の小作の堰付近も砂利の州と二子玉川兵庫島付近の河原の石とそれほど径が変わっていないようである。世田谷の古老の話では二子玉川の河原の砂利は昔は玉石であったという。他所の川では、河口に近い位置にある二子玉川のような場所では、砂もしくは小石になっている筈であるが、砂利とはほど遠い子供の頭ほどの石もある。昔は砂利を採ったと云われているが、昔の粒径との比較ができればある程度の答は出よう。

また、コンクリート製の洗濯板ような川底は、レキによる浄化作用も期待できず、植物も生えず、魚も身を隠すことができず、生物が棲むことが困難と思われる。河の相の単純化が進んでいると云われているが、真実ではなかろうか?

環境にやさしい川づくりをするためには、上流からもっと砂利を供給し、川床に砂利層を復元定着させ、癒してやるような工夫、例えば小さな堰や床止めを幾つかつくり、ゆるく水を流し、砂利の流下速度を遅くするなどの対策が必要と感じたが、「物質循環を無視した論外な素人考え」というご意見も戴いている。今日、市民版河川行動計画がつくられてはいるが、二子玉川田園都市線下流の中州の保存の議論では、「砂利は水とともに自然に流れるもの、中州を固定するなど素人考え、物質循環を阻害するのは論外」と常に一笑に伏されてきた。

堰や床止めは論外という意見であるが、もし、現在の羽村からの流量が一桁でその間、堰がなければ、さらに、その下流の堰で段階的に流量を調節している現在の仕組そのものを放棄すれば、冒頭で述べたパリのセーヌ川同様、一年のうち、数十日は乾いた川底だけ見える干からびた川になろう。

好むと好まざるとに拘わらず、人間の手で管理されている川であるという厳然たる事実があり、それに対して「今の自然のままでよい」という議論と「今よりも少しましに」という議論は今後も続くことになろう。「川は絶対にいじるものだはない」といった考えもあるが、21世紀には、大学でも総合化が叫ばれており、顕微鏡レベルの議論も必要であるが、流域全体を少しでもよい方向にするような総合的な議論をしていただければと思っている。多摩川センターがその役割を担うことになろう。

気のせいか、ここ数年、二子玉川から第三京浜にかけて河床が低くなっているのではないかと思われる節がある。もし、二子玉川で、砂利の供給と流失のバランス流れ、河床が下がってゆくようなことがあれば、羽村堰の下流がニセアカシアの林に変遷しているのと同様、世田谷のボランティアが保存を求めているオギの海も干上がり、潅木が生えるただの草原(くさはら)になろう。

もし、「多摩川らしさ」という言葉が、このような河床が下がり、土丹の川の進行を促進させる「今のままでよい」という考えを代弁しているとすれば、悲しいことである。多摩川礼賛の詩を綴ることも結構であるが、21世紀のあるべき姿を、是非、議論して欲しいものである。

「多摩川らしさ」とは何か?今、多くの人に考えて戴くためには、一緒に川を下って貰うことによって「グローバルに川がわかる」と思う。

今回の川下りで川から見た空間として美しかった場所は、5箇所あった。いうまでもなく御岳から万年橋付近までの奥多摩の渓谷、続いて羽村付近の樹林帯の風景、日野用水堰の広いダム湖のような水辺空間、ジャングルの小水路を彷彿とさせる府中用水、そして世田谷の国分寺崖線の風景で、それぞれ特徴があった。このような景観は大切にしてゆきたいものである。
とくに、二子玉川付近の広大な砂利がある河原と崖線の緑がある風景は、多摩川にとっても、東京23区にとってもかけがえのない河原の風景で、21世紀に残し、伝えたいものである。


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本稿は、多摩川・リバーシップの会の長野正孝が参加者の意見を聴きながら執筆し、掲載の写真は長野正孝、森田皓一が記録してきたものを提供した。陸上からの写真は、後日、森田が下ったコースを3日間掛けて歩き、撮影したものである。

最後に、今回、水量が多かったときであり、危険ではあったが、楽に下れた。水量が少ない場合に、同じ川下りを挑戦すれば、あらあらしい岩やブロックがむき出した水なし川の姿になり、おそらく、長い距離をボートを曳航し、河原や土丹の河床を歩く試練の川下りになろう。その場合、多摩川はまた違った姿であり、違った川を量ることになるであろう。

その点、数十年多摩川を研究されてきた方々にとって、わずかな経験でモノをいうとんでもない輩という謗りを免れることは出来ないと思っているし、私どもは舟遊びの集団で、河川工学、環境面では素人集団である。したがって、論評の一部については、まったく門外漢の考察であり、事実関係、事実認識に誤りがある可能性が大いにあると思うが、お許し戴きたい。しかし、時には素人の直感や感性も時には必要であると思い、筆をとった次第である。

なお、昔日の多摩川の写真は「とうきゅう環境浄化財団」から提供戴いた。この場を借りて御礼申し上げます。


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