多摩川 Ship・考  わかりやすい多摩川と舟のかかわり

●日本の首都を育んだ多摩川舟運の歴史                            

多摩川の舟運の歴史は、江戸時代、城や武家屋敷、それを取り巻く町村の建設、その後の度重なる火災からの復興のために、奥多摩の木材がイカダによって流されたことがはじまりとされています。木材は、青梅や五日市の山奥で切り出されてイカダに組まれ、筏師(イカダシ)が繰りながら平均4、5日がかりで下流の六郷へと運ばれました。だんだんと筏師たちが山で焼いた炭や、大森でノリの養殖に使うための「そだ」を運ぶようになり、多摩川は、運搬のための大切な水路となりました。  しかし明治、大正初期まで賑わっていた「筏流し」も、鉄道や自動車の発達で大正末期には多摩川から姿を消してしまいます。

 筏流し
   写真提供:とうきゅう環境浄化財団

砂利船 
写真提供:とうきゅう環境浄化財団   

 一方、新都東京の建設のために、明治時代初めから質の良い多摩川の砂利採掘が始まり、この砂利を運ぶために明治40年には玉 川電車が開通しました。大正12年の関東大震災で砂利の需要はうなぎのぼりとなり、加えて大戦からの復興のために益々必要とされたので、流域には砂利船が活躍し、大きな繁栄をもたらすことになりました。
 こうした砂利の採取・運搬業の盛況によって、二子玉川などを中心とした拠点の町には、人々が集まり、周辺の農村とは一味違った華やかな歴史と文化が醸成されていきました。往時の二子玉 川には、川湊があり、屋形船による趣のある船遊びの風景がありました。が、やがて人口増加に伴う上下水道の整備に支障をきたすことなどから砂利採掘の場所や量 が制限されるようになり、昭和39年には全面的に禁止となりました。

 砂利船と採掘場
  写真提供:とうきゅう環境浄化財団

屋形舟  
写真提供:とうきゅう環境浄化財団
  

 こうして、今では舟の姿をほとんど見ることのなくなった多摩川ですが、平成9年の河川法改正をきっかけに、忘れ去られていた舟運の営みが見直され、復活への努力が払われるようになりました。
 現代版多摩川の舟遊びや、子ども達によるイカダ下り大会を実践することで、昔の舟運の功績を学びながら、川を媒体にした交流を促進し、21世紀の川遊び文化を創造し、いい川づくりを実践しようする活動がはじまりつつあります。


●かつて多摩川はみんなの遊び場だった  

多摩川はアユの美味しいことでも知られ、江戸時代には将軍に献上されていました。多摩川でケガをしても化膿しないといわれていたくらい水もきれいでした。  明治時代後半、玉川地区では交通機関が便利になるにつれ、川岸に割烹や料亭が立ち並ぶようになりました。川面 には屋形船が沢山浮かび、遊覧しながらその場で料理したアユを食べられるとあって大勢の客でにぎわいました。中には50人も乗れる船もあったということです。

 大正に入ってからは、春は多摩川堤の桜、初夏は蛍狩り、特に夏には川遊びはもちろん、花火大会が盛んに行われて桟敷を組んでちょうちんを灯し、屋形船が繰り出し大変な人出でした。そして秋は月見と、四季を通 じて人々が集まり盛況をきわめました。  釣りを楽しむ人の姿は四季を通じて途絶えることなく、特にアユが取れる時期には、玉 川電車砂利鉄道が終夜運行されたこともありました。広い川原は沢山の水鳥やいきものの棲む自然豊かな場所でした。

 当時の子どもたちは、手伝いの合間に自然の中に溶け込んでのびのびと遊んでいました。冬は田んぼや川原での凧揚げ、春は川で獲物を探したり、土手のツクシやせり、ふきのとう等の摘み草に夢中になり、その収穫が家庭の食卓の助けにもなっていました。夏はホタル狩りはじめ、魚取りではドジョウ、フナ、エビ、ダボハゼが面 白いほど取れました。川もきれいでしたから、たらい乗り競争など水あそびにことかかず、沢ガニやあかガエルをおやつに、男の子などは素っ裸で遊び回っていました。 終戦後、都市再建のために砂利採取が復活しましたが、手堀りで砂利を掘り出したので、あちこちに深い穴が残され、水面 下に隠れた危険な箇所がいくつもありました。時には泳ぎに夢中になって深みにはまり、尊い命を奪われた子どももいました。しかし「魔の川」と恐れられながらも、娯楽が少なかった時代、多摩川は子どもたちにとって格好の遊び場でした。 しかし水辺の事故防止を目的に、大正11年に開設した玉川第二遊園地玉川プールの脇に子どもプールがつくられたことや、多摩川の水が汚くなってきたことなどがきっかけとなり、これに加え子どもたちの遊びの多様化、学校プールの普及などもあって、川原から子どもたちの姿が消えていきました。

往時の二子玉川風景 
  写真提供:とうきゅう環境浄化財団 

玉川第二遊園地玉川プール 
写真提供:世田谷区
 


●健在・現役 多摩川で働く舟 インタビュー

「東急ゴルフ場の渡しのおじさん」

渡しは、どんな仕事ですか?  
<多摩川の渡しのこと>

こちら(世田谷側)からあちら(川崎側)までゴルフ客を運んでいる。もちろん戻ってくるゴルファーも乗せるんだけど・・・。土日はお客さんが多いな。日本人は仕事関係とか仲間うちで、外人 さんは夫婦揃ってというのが多いかなあ。

 

   多摩川の渡し舟は、江戸時代徳川家康が六郷大橋という立派な橋をつくったものの洪水で流されて以来、重要な対岸を結ぶ連絡・交通 手段となり、昭和48年渡しが廃止されるまで神奈川側と東京を結ぶ役割を果 たしました。現在では東急ゴルフ場の渡しが、往時の雰囲気を残して両岸を往復しています。 又、「丸子の渡し」も健在です。その起源ははっきりしませんが、大正期、首都の食糧基地だった川崎側から、15Mもの大型船が、野菜を積んだ5?6台の荷車ごと積んで往来し、夏場は特に梨や桃の出荷で混雑しました。
繰船に苦労することはありますか?  

ないねえ。以前はサオであやつっていたが、大雨の時以外は心配なかった。今は船外機が付いているから安心だし。

 

 
ゴルフ場のことを聞きたいのですが  
渡しを待つ人たち 写 真提供:世田谷区

昔のゴルフ場は、ここから砧公園までところどころあったが、今では色々と問題があって縮小したようだ・・。私らの仕事も若い人の継ぎ手がいないのが寂しいね。

 

 
最近の川の様子はどうですか    丸子橋が開通した1935年(S10)以降、一時途絶えたものの、敗戦後、水泳客向けに再会され、5M以上の竹竿で舟を繰って川崎側に客を渡しました。花見時期には、玉 川台公園を訪れた客が、渡しの番を待って並び、その列は、辺りが暗くなるまで20M以上も続いたといわれています。 客の減り始めた1968年(S43)、渡しは貸しボート屋に転業したものの、今でも頼めば対岸に渡してくれます。対岸までは約100Mで、小型エンジンの漁船を使い約2分余り。料金は大人150円・子供は無料です。

釣り客ばかりが目立つね。たまにカヌーも通るし、イカダ競争をやっているのも見たよ。

 

 
一般の人が乗ることはできるでしょうか  

これはゴルフ場へのお客さんへの便宜をはかっての渡しだから、申し訳ないが、お断りすることに なっているんだ。

 
     

「貸しボート屋のおじさん」

いつからこの仕事をやっているんですか?  
<川漁の盛衰と貸しボート>

戦前にひいおじいちゃんが始めて、私で三代目。30隻持っている。不景気のせいかお客が少なくなったと感じるねえ。夏場はアベックが沢山来るけれど。

 

   江戸時代の頃から、自給自足による農家の食生活は貧しく,海産の鮮魚類を口にすることなど夢物語。なま魚といえばもっぱら多摩川で取れた川魚でした。そうした流域の人たちの要求にこたえて,川漁師たちは多摩川の漁に従事し,鮎をはじめさまざまな川魚を提供してきました。その日その日が勝負。農村のような村落共同の組織もなく,時代のあらゆる特権や庇護から外れた厳しい世界ではありましたが、何よりも漁を好み,自然の試練に耐え得る資質をもった漁師達は、農耕社会とは違った、自由で生き生きとした川漁師気質を育てあげてきたといえるでしょう。 しかし、時代の変換と共に、生業を捨てざるを得なくなった漁師達が、おのずと周りの農耕社会に吸収されていく中、昭和10年ごろから、手持ちの船で人を遊ばせる風ができ、川を離れることなく渡し舟屋や貸しボート屋に転業した人達が現れ、今の姿となりました。
カヌーやゴムボートなど、自分の船で遊ぶ人を見かけますか?  

夏の時期には月に4〜5回は下って来るんじゃないかな。が、まだ珍しいなあ。

 

 
多摩川に対する思いがあったら聞かせて下さい  

川をどんどん利用して、もっとにぎやかになって欲しい。川をじっと見ているだけでも心 をいやされる人も多いんじゃないかな。

 

 
  

貸しボートが浮かぶ多摩川 

貸しボート 昭和47年頃

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