― 多摩川三大話 不思議な環境問題 ―



 曲楽河川
 つれづれなるままに書きつらねたる・・・








不思議其の一  因果な多摩川のゴミ
不思議其の二  商業主義の異種放流
不思議其の三   河川整備がつくる子ども達やカヌイストの危険



其の一
因果な多摩川のゴミ
 ヨーロッパの川や海はきれいである。ゴミがない。
 どうも原因の一つに河川管理者が厳しく取り締まり、親も子ども達に早くから環境教育をしていることにある。管理者には警察権に近い権限があり、河川を汚している者を見つければ罰則も厳しい。違法行為の者を警察に突き出すことがある。国と町の関係であるが、町の中の水路、運河の管理、改修は完全に町の自治組織にまかされている。
 住民も環境や景観に対して地域や家族で護る仕組みをきっちりつくっている。法は例外がなく、秩序を重んじる。そして、住民はゴミを捨てないし、水路の周りに花を植えたり毎日きれいにしている。捨てる者がいれば、忽ち、つるし上げられる。



公共の水辺でも市民が花を植えきれいにする


 一方日本の役所といえば、問題が生じさえしなければ、「あいまい」に取り繕うことが多いようである。その典型例が多摩川、二子玉川のバーベーキューである。二子玉川ではバーベーキュー禁止である。「禁止」と書いてある前方の河原で、休日ともなれば、バーベーューの輪が一面にでき、堂々とやっている。

 世田谷区、玉川警察署、玉川町会からのお知らせとして、花火や火を使うこと、(バーベーキューを含む)が禁止として、看板に大きく書かれているが誰も見ないし、地元で看板を出している人達も、お役所と一緒にやっている。近くの量販店などでは、バーベーキュセッとト、炭、薪まで堂々と売っている。
 この看板の趣旨は、夜遅くまで騒ぎ、近所に迷惑が及ぶ、河原の草を刈っていないので火が移るの怖れること、ゴミがでることらしく、苦情が出れば、「地元世田谷区としては認めていないよ」という、要するに看板は役所の免罪符でしかないが、お役所や地元の町会の人々も火を使うことをやっている。そして、一部の地元の人が犠牲的精神を発揮してゴミを集めている。


     
禁止の看板完全無視、みんなで楽しいバーベーキュー        だけど官民 みんなやっている・・・・・


 欧米ではこのような「あいまいな規則」はなく、「禁止」は「禁止」であり、警察や町会は「禁止ですよ」といって、退去させるのが、普通である。
 しかし、ここでは、警察も地河川管理者、区も何も言わないし、誰もおかしいと言わない。看板があるだけである。こんな川で「水辺の楽校」をつくっても、子どもの本当の教育にはならない。
 多摩川のゴミの多くは、河原のゴミは釣師が捨てていたものとバーバーキューやピクニックのゴミである。言い換えれば、企業や地元、役所,漁業組合が暗黙の了解のもとでの川ビジネスから発生したものといっても過言ではない。
 その対策として、純真な子ども達や学生、一部の地元のボランティアに拾わせるキャンペーンを企業と役所がつくっているが、その構図には大きな欺瞞がある。
 
 むしろ、禁止とせず、バーベーキューや芋煮などをきっちり指導して行わせる、釣人にもゴミも拾わせる。それでも出るゴミのコストはバーベーキューセットを販売する企業、商店会、鑑札を売った漁業組合などが負担すべきで、これら受益者はパトロールし、ゴミを出さないように訪れる人を指導し、残されたゴミの処理に勤労奉仕をする。すなわち、社会的コストの一部は彼らが払うべきであるが、残念ながらゴミに対する社会的な仕組みがない。

 ゴミによっては人間に害を与えるものがある。「水辺の楽校」が普及し、川に子どもが入る時代になったが、釣り針による子どものけがは釣具メーカーの製造物責任が問われる時代になるであろうし、河川改修のブロックによって事故が起きた場合、国家賠償法の対象になるであろう。
 多自然型の「水辺の楽校」をつくるという話が進み、川歩きも盛んになっているが、それと一緒に本川を子ども達が入れるようにするためには、この際川を利用する人達のみならず、行政や企業の意識改革も必要である。

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其の二
商業主義の異種放流

 この川の問題は、川の環境がおかしくなる行為があらゆる階層で行われていることである。

 世田谷の市民団体の中には、地元企業の支援を得て鮭の放流をしているし、最近は鱒の放流の議論であるが、議論が起こることすらおかしいのにまじめに議論している。水系を超えて異種の鮭などの魚を放流することは、ヨーロッパ、アメリカでは犯罪として法律で禁止されており、州法などによって厳格に取り締まられている。ちなみに、日本の例では沼津近くの湧水の川、柿田川の支流の鱒釣場では、釣った鱒を絶対に川に放さないように警告書が出されている。
 
 その川にいない種の放流禁止は国際常識で、一部の先進地域は理解しているが、多摩川ではそうではない。商業主義に阿る国や自治体の意識レベルがそうさせているようである。遺伝子の交雑、生態系の崩壊及び稚魚、卵からの寄生虫の蔓延で、多摩川では、環境学者は反対しているが、生息していない鮭の稚魚を放すことに協力している役所、それに金を出地元企業、学校の先生と子どもが放流し、マスコミがそれをはやしたてて書き、市民活動家もトラスト協会も黙認している、人が放した鯉が増えすぎているのに誰も何もしない実に不思議な川である。

 どうも、この川にとどまらず日本の川には、将来の川の環境をどうするかという筋の通った哲学や枠組み、指針、公益を計る物指しがどこかに忘れられ、その場その場の議論で物事が進み、また、誰もそれを指摘しないという不思議な構図がある。それをさらに迎合する社会ができ、有識者は下を向き、黙って息を殺し、反論でき難い、不気味な雰囲気で、声の大きな人達が言葉だけで支配する社会環境が醸成されつつある。多摩川全体をよくしようとするごく普通の議論や思索を巡らす提案は無視され、川が年々悪くなっていると感ずる人は多い。 


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其の三
河川整備がつくる
子ども達やカヌイストの危険

 多摩川は関東では他に例のない急流河川である。羽村から田園調布までは、幾つかの堰の部分を除き、水は落ちるように流れる。洪水の度ごとに川の姿が変わる。護岸も洪水の度に壊される。そして、その度に、落差工、床固工,護岸に使われていたブロックやじゃ籠が流され本流や河原の至るところ転がり出す。ビオトープを川崎側の等々力や登戸などにつくるものの一年も経たないうちに流される。

 流されたじゃ籠、ブロックは巨大な川の廃棄物になるのみならず、さらに悪いことに危険物になっている。中空三角というブロックはばらばらに長方形のコンクリート塊に分解され、六脚ブロックやテトラポットは、次第に脚が磨り減り、いずれも中の鉄筋(吊り筋)が剥き出している。急流ではこの鉄筋がボートに刺さったり、遊んでいる子どもにけがをさせたり、危険極まりない。川で遊ぶカヌイストの中には鉄線じゃ籠の破片を踏み抜いてけがした者もいる。

      
河川管理がつくる粗大ゴミ
    

 

河床勾配が他の川より大きいので、素人目に見ても、まず、流速を落とすような工夫が必要で、上流に水を湛え,一度に水が流れないようにする、流されない大きなブロックを使った護岸整備などよそと違った抜本的な対策が必要ではあるまいか?現状では賽の河原である。

 水辺の楽校のために河川敷にビオトープをつくっても同じである。等々力につくったビオトープのように流されたり、川崎宿河原の「できちゃったビオトープ」のようにできちゃったり、それが面白いといって数千万、数億の予算を毎年使うことは税金の無駄遣いと言われても仕方がないし、洪水のときの粗大ゴミをつくっているに過ぎないという意見もある。
今から300年前に田中丘隅という川崎の庄屋が幕府の多摩川改修に「現場も見ず、急流河川と他の川との河相の違いを考えず、同じような工法を採っている」と批判しているが、歴史は繰り返されているようである。

 国や自治体は、毎年、賽の河原のように流されてしまう水辺の楽校や護岸整備に力を入れる前に三つのことが必要である。

 第一に、人が安らぐことができる川として、暴れないような河相にすることがまず先であるように思う。
 第二に今までは構造物の安全であったが、これからは、使う子ども達や船遊びの安全、壊れて流されたときの安全対策を考えることが基本である。流れ出したブロックが遊ぶ人にけがさせない、船を傷めないようにすることも大切である。
 第三に血管に溜まったコレステロールのような川底の危険ゴミを管理者の責務として除去し、安全に人が近付ける川にすることである。

 まずは、多くを語ることでなく真摯に川を見ることから始めよう。 「水辺の楽校」は、川が危険だからといって入れるのを止めることではない、人間が入れる川に戻すことがまず基本である。



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